※ポジティブ日記を心がけているものの、今回は書いて残したい気分だったので悲しい日記です。ここに閲覧注意をつけた上でUPすることにします。
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昔、札幌から電車で少し揺られたところに、母方の祖父母の家があった。
その前に祖父母が住んでいた家のことは幼くて覚えていないので、私にとってはあの家が「おじいちゃんおばあちゃんち」で。あの家を手放してからもその感覚がなかなか抜けなかったな。
小さい頃は、その家に叔父や叔母やいとこと集まって過ごしていて。夕飯は長テーブルをみんなで囲んでいた気がする。食後だったかなぁ、なんとなく大人は大人で食卓テーブルでお喋り、子どもは子どもでソファのところや2階で遊ぶ、みたいになっていたんだけれど、5歳年上のいとこのお姉ちゃんが、中学生になった途端その大人組の方に行ってしまい、寂しかったのを今でも覚えている。だから1歳上のいとこのお兄ちゃんと2人で遊んでいたら、親らが「仲良いわねぇ、どうしよう将来結婚するって言い出したら!」「いとこは結婚出来るもんねぇ」と妄想してキャッキャしていたのも覚えている(笑)結果としては、しなかったね!当然のごとく(笑)
とはいえ、いとこのお姉ちゃんは小さい時からずーっと会うたびによく遊んでくれて。主に2階の広い部屋で、「なまはげごっこ」と称し、いとこのお姉ちゃんが追いかけてくるのを、私といとこのお兄ちゃんでキャーキャー言いながら逃げていたのを覚えている。たぶん一番やった遊びなんだろな。
その2階の広い部屋にはおじいちゃんのカラオケセットもあって、おじいちゃんの歌をよく我々子どもたちは聞いていた。…聞かされていた?(笑)残念ながら演歌しか入っていなかったので、基本私たちはあまり遊べなかったけど…与作を入れてヘイヘイホーとか言っていたような気もする(笑)
2階の廊下にはマッサージチェアとランニングマシン、自転車があり、ミニジム状態だったので、そこで遊んでもいたな。私は自転車がお気に入りでよくこいでいた。
廊下の壁にはおじいちゃんの趣味の切り絵作品や、おじいちゃんの勤務時代の写真が貼ってあったな。そして2階から1階へ降りる階段の途中には、おばあちゃんの生け花が飾ってあったんだった。
2階の狭い方の部屋はおじいちゃんの部屋で、たまに入るくらいだったかな。遊び場にはしてなかったような。いとこがそこでおじいちゃんに習字を習っているのを見た記憶。後に、私も習っておいたら良かったなぁと思ったけど。
1階のリビングには黒い柔らかいソファが2つ向かい合わせに置いてあって、広い方で寝っ転がるのが好きだったな。
今でも目に焼き付いているのは、遊びに行って玄関からリビングに入ったら、狭い方の黒いソファに座っていたおじいちゃんがこちらを振り返る姿。
いつもおばあちゃんとおじいちゃんがそれぞれお小遣いをくれていて、なんで別々で、しかもおじいちゃんの方が少ないんだろ?と思っていたけれど、きっとおじいちゃんがくれていた方はおじいちゃんのポケットマネーだったんじゃないかな…と大人になった今なら想像が出来る。
そういえばキッチンには地下室?みたいなものがあって、よくおばあちゃんが床の蓋を開けてそこから野菜を出していたな。同じくキッチンから裏庭?にも出られたので、裏庭に出た記憶もある。冷蔵庫には必ずジョアが入っていて、毎回もらっていた。
地下室で思い出したけど、2階には納戸があって、更にそこから天井裏?にも出られた。落ちたらどうなるのかなとなかなかドキドキする空間だった。基本、トイレットペーパーとティッシュが買いだめしてあるのを取りに行くくらいだったけど。
また1階の話に戻ると、お風呂場にはダスキンのモップが置いてあって、よくそれで掃除のお手伝いをしたような。あと、おばあちゃんが使っていたシャンプー(ラックス)の使い心地に感激して、その後しばらくは真似して私もラックスを使っていたような。
すごく助かることに1階にも2階にもトイレがあったから、めちゃくちゃトイレ行きたいのに1階で誰かが使ってるってときは、2階に走って行ったなぁ。
あと1階にあったのは寝室か。おじいちゃんの小さいテレビで、相撲を見て貴乃花を応援していたな。一緒に見ていたのがおじいちゃんだったか誰だったかは覚えていないけれど。
あ、あと和室もあった。仏壇があって、必ずお参りしていたな。時にはお坊さんが来て皆でお経を唱えていた。
庭も結構広かったな!おばあちゃんがお花を育てていたから、水やりをお手伝いしてたかな。ホースで虹作って遊んだなー。草刈りもしてたな!草刈機があったんだっけ?
しかも斜め向かいに大きな公園があって、よくそこでも遊んだな。近所に住んでて知り合ったまなみちゃんという子と遊んだり、同じ学校の仲良しであるかおちゃんと行った時にカラスが死んでいるのを見てしまい叫びながら逃げたり(笑)
最寄駅のイトーヨーカドーに行くのも定番だったなぁ。何年か連続で1月1日にお母さんと入口付近にあるプリクラを撮るのにハマっていた時期もあった。
そういえばリビングでよくおじいちゃんとおばあちゃんは一緒に体操していて、私が「おじいちゃんとおばあちゃんは元気だし長生きしそうだねぇ」と言ったら、隣にいた母のリアクションが微妙だったことを覚えている。
後から知ったことだけどそのとき既におじいちゃんは病気がわかっていたみたい。おじいちゃんに「この子がハタチになるまで生きられるかな?」と言われたことも覚えている。
でもおじいちゃんは私が10歳のときに亡くなってしまった。お見舞いに何回か行ったな。便通の話してたことを覚えてる。
おじいちゃんのお葬式は悲しくて悲しくて、でもきっと孫の私より娘や息子であるお母さんや叔父さん叔母さんの方がつらいだろうから、私が大泣きしたらダメかもしれない、なんて思って、当時はまっていた漫画の続きを妄想して必死で涙をこらえていた。今思えば、子どもなんだしそんな関係ないこと考えずにおじいちゃんのことを考えて号泣しといたら良かったのに、って感じだけど。
何年かしておばあちゃんは、その家を引き払ってうちの実家の近くに越して来た。その頃には私はもう実家を出てたのかな、確か。帰省の度に会って、おばあちゃんの家に遊びに行ったり、一緒におじいちゃんのお墓まいりに行ったり、ごはんに行ったり。
こないだ里帰り出産で長く札幌にいたので、何回か会えたな。珍しく一緒にパンケーキ食べたりして。
私とおばあちゃんは背が同じくらいだったのに、いつの間にかおばあちゃんを見下ろすようになっていたなぁ。
おばあちゃんはたまに電話もくれた。切るときは必ずフェードアウトで、受話器を耳から話して電話機本体に置くまでの間ずっと「身体に気を付けてね」みたいなことを話してる(笑)こっちも「はーい」とか言ってるんだけどたぶん最後の方は聞こえてないんだろうなと思いつつ(笑)
そして先月の5日に電話で話したのが、最後になってしまった。叔父さんが年末年始帰ってきてて、煮付けとか作って帰ってくれたって。叔父さんそんなこと出来るんだ!と意外に思ったからそこだけすごく覚えてて、他のところはあまり覚えていない。
なんで覚えていないんだろ。
きっと年賀状の話とか、息子の話とかしたはずなんだけど、きちんと思い出せない。また話せると思ってた。3月のおばあちゃんの誕生日用にお漬物買って、送ろうとしてたし。夏も会えると思ってた。悲しい。
お通夜とお葬式に行けないので、せめて京都から祈ります。
子どもの頃の記憶を忘れてしまうのが怖くて、この日記を書きました。
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